新法・旧法の争い {中国・宋・歴史}

英宗は濮議の混乱に足を取られたまま治平四年・1067年に四年の短い治世で崩御。
子の趙-神宗が即位する。

20歳の青年皇帝・神宗は英宗代に赤字に転落した財政の改善・遼・西夏に対する劣位の挽回などを志し、それを可能にするための国政改革を行うことのできる人材を求めていた。

白羽の矢が立ったのが王安石である。

王安石は青苗法・募役法などの新法と呼ばれる政策を行い、中小農民の保護・生産の拡大・軍事力の強化などを図った。

しかしこの新法はそれまでの兼併・大商人勢力の利益を大きく損ねるものであり、兼併を出身母体としていた士大夫層の強い反発を受けることになった。

新法を推進しようとするのは主に江南地方出身の士大夫でありこれを新法派、新法に反対するのは主に華北出身の士大夫でありこれを旧法派と呼ぶ。

新法派の領袖・王安石に対して旧法派の代表としては司馬光・蘇軾らの名が挙がる。

王安石は旧法派を左遷して新法を推進するが、相次ぐ反対に神宗も動揺し、新法派内での争いもあり、王安石は新法の完成を見ないまま隠棲した。

神宗は王安石がいなくなっても新法を続け、その成果により財政は健全化した。
update:2010年03月09日